過去の説教

「キリストへの時間」ラジオ放送説教 6月29日

「敵を愛しなさい」

那加教会牧師 中根汎信

<聖書> マタイによる福音書 5:43〜45

あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、畝を憎め」と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの大の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、止しい者にも正しくない者にも繭を降らせてくださるからである。

お早うございます。岐阜県各務原市にあります那加教会の牧師、中根汎信ともうします。今朝も「キリストへの時間」をお聞き下さり大変うれしく思います。この放送をお聞きのあなたが、日曜日に近くの教会へ、お出かけくださることを切に蘇っています。
またこの番組への感想・質問などお便りやファックスをどしどしお送りください。

社会に出れば男には7人の敵がいるといわれたりします。小説やテレビのドラマでも激しい人間同士の戦い、うらみ・つらみ・怨念ということがテーマになっています。戦国時代の上杉謙信が塩不足に悩む宿敵、武田信玄に塩を送ったという話はありますが希な例です。むしろ人間関係の美しさよりも、醜さというか、罪深さがよく取り上げられます。今朝お話する主イエスの御言葉は、このような世の中に生きている私たちにとって、難しい要求のように思われます。「敢を愛し.自分を迫害する者のために祈りなさい」という言葉です。羊イエスのよく似た次のような御言葉があります。「兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか」と、弟子のペトロが尋ねました。
すると!主イエスは「7の70倍までも許しなさい」といわれました。490回、許せばもうよいというのではなく.限りなく全てを許しなさいということです。許すということは、愛することの全てではありませんが、愛の大切な要素ではあります。

主イエスが教えてくださったとの祈のことで、宣教師となられたある女件のカがいわ
れました。「主の祈のなかで、いつも言葉が詰まってしまうところがあります。それは『我等に罪を犯すものを、我等が許すごとく、我等の罪をも許したまえ』というところです。人を許せない、愛せない自分を思うと、この言葉に詰まらざるを得ないのです」と言われました。私たちは自分が人を許すとか愛するだけでなく、むしろ人に許されなければならない着です。人から愛されている存在であります。また自分が人に与えた宮はさほど感じませんが、人から受けた害は何倍にも感じ、そしていつまでも覚えているものです。人間以上に、主イエスは私たちを限りなく愛しておられるのです。私たちが主イエスを知らないでいたとき、いやかえって主イエスに反抗していたときから、すでに私たちを愛し続けてくださいました。また神は私たちに必要な太陽を与え、雨を降らせてくださいました。そればかりか、神様は私たちの大の父、天のお父様となってくださるために、御子イエス・キリストをお与えくださいました。そして宅イエスは、神様をも、人をも愛せない私のために、十字架に御かかりくださいました。十字架のとで「父よ、彼ちをお節しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と敵のために祈られました(ルカ23:34)。

十字架の主イエスのみが、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という言葉に生きられた御方です。主イエスを信じ、主イエスの愛に触れたとき、私たちは造り変えられていきます。神様の子供として、新しくされていきます。そのため、今日も主イエスは私たちのために、祈り続けておられます。私たちにL 自分が犯した罪も、人が私に対して犯した罪も、主イエスに委ねるのです。神様はその時、私たちを神様の子供として、愛に′圭三きるようにしてくださいます。キリストの福音は、人間にlま不可能に思われるようなことを、可能にされるのです。

「キリストへの時間」は、毎週日曜日の朝6時30分より、中部日本放送・CBC
ラジオで放送しています。ラジオからの主イエスの御言葉に耳を傾けてください。



過去の説教】
 ◇2003.03.09  「心は燃えていたではないか」 聖書 ルカによる福音書 24:28〜32

  「心は燃えていたではないか」
       聖書 ルカによる福音書 24:28〜32
      那加教会牧師 中根汎信

 皆さんといっしょに、聖書のお言葉からイエス様のお恵みをともにいただきましょう。
私たちの那加教会は各務原市役所の北、名鉄の飛行場駅から3分程のところにあります。
昨年末に教会を新しく改築しまして、皆様をお迎えすることになりました。ぜひ日曜日の礼拝などにおこしください。 
3月・4月は、学校では卒業・入学、職場でも異動などの季節ですね。皆様の上に、これからもずっと神様のお恵みが豊かに注がれることを祈っています。
 卒業は旅立ちの季節です。卒業式などで「送る言葉」がいろいろな方から語られます。
しかし卒業だけでなく私たちは、いつもどこかへと旅する旅人のようでもあります。
 今朝は神様からの「送る言葉」を皆様にお伝えしたいと思います。
 この聖書の所にはある小さなエマオという村に向かっていた、二人のイエス様の弟子たちが登場します。彼らは歩いて3,4時間の、いわば小さな旅をしていました。私たちの日々も、小さな旅の連続であると考えてよいかと思います。私たちにはいろいろな旅があり、出発があります。私は30数年も前のことですが、確かな目標もないまま、それまで勤めていた会社やめてしまいました。そのとき先輩や同僚が、心のこもった送別会を開いてくださいました。
そこで歌ってくれた歌が今も忘れられません。
「君の行く道は、果てしなく遠い。なのになぜ、何を求めて君は行くのか。そんなにしてまで。」という歌詞でした。当時はエレキギターが大はやりの時代でした。会社にもエレキギターグループがあって、そのひとたちのギターの演奏で歌ってくれました。
 前後して、近くの教会の日曜日の礼拝に出席するようになりました。教会で洗礼を受けたのは退職してしばらく、まだの置き所も定まらない、不安定なときでした。しかし教会の門をくぐるようになって、だんだんと不思議に平安や喜びが湧いてきました。「なぜ、何を求めて、君は行くのか。」という問いにも、少しずつ答が与えられたように思いました。そして今日まで、神様は私のようなものを見捨てず導いてくださいました。このルカによる福音書24章に登場する二人の弟子たちの小さい旅で起こった、とってもすばらしいできことをお話しましょう。
 聖書には「二人は、道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないかと語り合った」とあります。これはよみがえられたキリストが、二人の弟子たちと一緒に歩いて下さったときのことです。彼らはそれまで、暗い心に閉ぎされていました。イエス様が十字架で殺されて3日目の夕方のことでした。尊敬する先生、イエス様が殺されてしまった。そのイエス様がよみがえられたという話をほかの弟子から聞いたのだが、とてもまだ信じられないという気持ちでした。
 そこへ死からよみがえられたイエス様ご自身が来て下さり、共に道を歩んでくださったのです。
彼らはあまりのことで、ずっとその御方がイエス様ということに、気付かずにいっしょに歩いていました。しかしあとで彼らは、「わたしたちの心は燃えていたではないか」ということに気付いたのです。なぜうち沈んでいた心が燃やされたのでしょうか。ひとつにはイエス様が道々、いっしょに歩いてくださったからです。
 気のあった友人と旅をしたり、どこかへでかけることは本当に楽しいものです。それがあのイエス様だとしたら、私たちの心はなんと大きな励まし・喜びを得ることでしょう。よみがえられたキリストは、弟子たちに約束されました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」イエス様は復活の後、天に帰られましたが、今もイエス様の御霊は私たちと共にいてくださいます。イエス様とともに歩む人生はなんとすばらしいことでしょうか。もうひとつは、イエス様はただ黙っていっしょに歩いてくださっただけでなく、二人の弟子に聖書のお話を語っくださったということです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき」に、二人の弟子たちの心は燃えていたというのです。今日でも、毎週の教会の礼拝では礼拝や聖書の学びを通して、主イエスは私たちに語り続けてくださっています。これはなんと素晴らしいことでしょうか。
 聖書の言葉は、私たちに勇気や力や恵め・喜びを与えてくれます。
私たちはこれから、嵐の海に船出するのでしょうか。あるいは荒れはてた大地に歩みを続るのでしょうか。あるいは迷路のような人生を歩むのでしょうか。
 明治・大正時代に活躍した有島武郎(1878年〜1923年)という作家は「道はなし、世に道無し、心して、荒れ野の土に、汝が足を置け」という辞世の句を詠んで、自らの命を絶ちました。なんという寂しさ・絶望感にみちた短歌でしょうか。しかしこのような気持ちに押しつぶされそうになることは、私たちがときどき経験することでもあります。私が会社を辞めたときも、似たような気持ちでした。しかしそれからの私には、イエス様が共にいてくださいました。神の御言葉が近くにありました。私の不確かな考えや方針などよりも、共にいてくださる確かなイエス様の導きをいただくことができました。今日こイエス様の話をお読みくださった皆様の歩みが、日々イエス様とともにありますように。またイエス様の御言葉が共にありますように。そして、心燃やされる思いでこれからの歳月を送られますようにと、心から願っています。それが、私の皆様に送る言葉です。