【7月の伝道集会・講演会のお知らせ】 |
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A)説教 「生きる力」 ヨハネ4章1〜15節より。 ・7月13日(日)、10時30分〜。 ・小峯明牧師(岐阜加納教会)。 ・キリストに救われた、サマリヤの女性のお話。 B)講演会 「聖書の終末論・序論的考察」 ・7月13日(日)、13時〜。 ・小峯明牧師(岐阜加納教会)。 |
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【英会話・バイブルクラス開催してます】 |
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英語で聖書を学んでみませんか。アンドリュー・カリク宣教師が、ギタ |
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| 聖書のお話 「祈りは聞かれる」 | |||
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| (2003年4月6日午拝での説教) <はじめに> サムエル記は、預言者サムエルと、二人の王サウル、ダビデの物語が、上下2巻に ある。イスラエル王国の建国物語である。その中で選びの民がどのような働きをし、 あるいは失敗をし、また神に用いられるか。このような大河小説にも似たサムエル記 は、物語としても大変面白い。イスラエル建国物語が、一つの平凡な信仰の家庭の物 語から始まっていることにも、興味を引かれる。ちょうど新約の福音書が、マリアと ヨセフというごく普通の家庭の物語から始まっているのと同じである。 サムエル記の前は土師の時代である。土師の時代の終わりころは、もっとも信仰的 に暗黒の時代であった。しかし恵みに富たもう神は、イスラエルを見捨てられない。 このようなときに必要なことは、神に用いられるべき神の器である。その器こそ、サ ムエルである。しかしせっかちな私たちはすぐに立派な成人した神の器が、どこかに 用意されていると思う。しかし神のご計画は少しもあわてず、しかも寸分の狂いもな く推し進められる。神の器が与えられるために、まず神は一つの家庭、一人の母を備 えられた。救い主イエス・キリストの御降誕のためにマリアを備えられた神は、サム エルのためにハンナを選ばれた。神はハンナによってサムエルを与えられたように、 私たちをして次の世代のことを考えさせられる。そのとき小さな家庭が用いられる。 今日はまずサムエル誕生に至るまでのその家庭の姿を見ていこう。 <神の憐れみ> 私たちは偉大な預言者サムエルを生んだ家庭はきっとすばらしい、模範的な信仰の 家庭と考えるかもしれない。しかし私たちと同じように、悩みと罪に彩られた普通の 家庭である。妻のハンナに子供がなかった。そのためか夫エルカナには、さらにもう 一人の妻ペニナがおり、彼女には子供がいたということであった。これで家庭がうま く行くわけがない。家庭生活のもつれは起こるべくして起きた。一夫多妻という非聖 書的結婚から、家庭に生じる面倒なこと、それに伴う心の痛みに、彼らはどんなにか 耐えていかなければならなかったことか。旧約聖書にはエルカナの家族以外にも、家 庭内の悲劇は幾つも記されている。アブラハムはそばめハガルに生ませた子供イシマ ェルを、母とともに荒れ野に追放しなければならなかった。しかし不思議なことに神 は、アブラハムのような家庭を祝し、彼らを天の星、海辺の砂のように多くする、繁 栄させると約束された。ヤコブの家はもっと複雑で、二人の妻と二人のそばめから、 12人の子供が生まれた。その家庭は多くの悲しみやいさかいを経験した。しかしヤ コブの12人の子供たちは、それぞれにイスラエル12部族の基となった。人間の失 敗や欠け以上に、神の恵みと愛は大きく彼らに注がれた。 いま夫エルカナは忍耐をもって家庭内の十字架を背負い、進んでいくのである。弱 さを日々覚えながらも、神により頼む人を神は強くしてくださる。とにかく彼は家長 として、ペニナとその子供たち、そして最愛の妻ハンナを引き連れて、恵みの場であ る礼拝にあずかるのである。この信仰をとおして、彼はその悩みにもかかわらず、祝 福の扉を開くことができたのである。さて妻のハンナはどうか。彼女の胎は閉ざされ、 子供がなかった。おおよそ聖書に登場する女性で、子供のない女性はやがて計り雛 ことのできない神の恵みに預かる。アブラハムの妻サラ、イサクの妻リベカ、マノア の妻、福音書の祭司ザカリアの妻エリサベト、彼女たちはみな、子供ができなかった が、神の恵みを受け、祝福の基となるべき子供を与えられた。その母なる人の祈りと 嘆きと訴え、そういったなかで子供を与えられたのであった。神は人間にはできそう にないことを、その高い目的と御計画のために実行される御方である。 ハンナがどんなにか信仰の女性であったかは、聖書が記すところである。しかしこ の信仰もハンナの生来のものというより、悲しみ中傷や迫害、それらのなかで鍛練さ れていった信仰であろう。ルカ福音書6:21は私たちに次のように慰めを与える。 「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」。これはこのよ うな信仰の道をたどっていった人たちのことであろう。その涙の後に、全知全能の神 により頼むことを知った人こそ、幸いである。 <ハンナの祈り> ハンナは泣いて泣いて食事も喉を通らなかったほどである。しかしその涙は激しい 神への祈りとなった。ここがハンナの偉いところである。ハンナはこの祈りでハンナ とされた。すなわちハンナとは「みいつくしみ」の意味である。ハンナは、人には不可 能でも、神にはできると信じた。そして祈った。祈るとはまさに信じることである。彼 女の祈りには、自分が受けている辱めについて何ひとつ訴えてはいない。夫への不 満も、日毎に自分を悩ます敵対者にも、何ひとつ恨みがましいことを言っていない。 とくに神に向かって不平がましいことを言わない。神により頼み神に全てを期待し、 神の最善の処置を信じる者は、最悪の事態の中でもなお万事を益として下さる神をか たく信じ祈る。これはハンナの昔に限らない。3000年後の私たちもその祈りと信仰 によって、ハンナの息子・娘となるのである。神は、ハンナの例を通して、今日の私た ちに大きな励ましを与えておられる。いかなる時代にも、神は私たちを諦めや失意の 中から、力強くたちあがらさせてくださる。人生の暗礁に乗り上げたとき、また四面 楚歌の心境にあるとき、そのただ中で私たちはハンナが祈っている姿を思い起こした い。私たちは新しい勇気と、神への信頼をもって、未解決の人生の間題こ立ち向かう ようにされる。 もうひとつハンナの祈りに注目してみると、彼女はここで驚くべきことを神に誓ってい る。それは神が男子を授けてくださったなら、その子を一生の間神に献げると いうも のである。やっとのことで与えられた子供なら、自分の宝物のように、なめる ように 可愛がり育てるのが普通である。子宝とかいって宝物のように育てる、これは 結局 神に与えられた子供を宝物すなわちモノとして私物化することになりかねない。 ハンナは主の宮でサムエルを神に献げた。私たちの礼拝は、自分自身の献身の時で もあり、我が子を献げる献児式でもある。そこに主が共にいてくださり、親と子供を、 祝福してくださる。 |